こうみえて、大学時代に日本中世史を専攻していた私の卒論テーマは「戦国末期雄勝郡と小野寺氏ー最上氏との対立に注目してー」であった。ゼミ生で唯一、担当教授から“直し”を命ぜられたほろ苦い思い出をつくってくれた論文だが、時々読み返しては「なかなか鋭いところを突いているじゃないか!」と自画自賛している。
昨日から条里南庁舎講堂で行われていた今年度の「後三年合戦シンポジウム」。今日の午前の講演テーマが「清原氏と小野寺氏の歴史的位置づけ」ということで、久しぶりに小野寺氏の勉強でもしてみようかな・・・と思い参加した。講師は中央大学文学部教授の白根靖大氏。
小野寺氏に関する歴史的な史料というのは少なく、しかも不明な部分が多い。20年前の卒論執筆時もそれで苦労したのだが、まあ当時の北奥羽の有力な戦国大名の多くが国人領主連合の盟主という位置づけゆえに強大な権力を発揮できない領国経営を行っていたと考えればそれは当然のことだろう。
白根氏は小野寺氏のこの地域での位置づけを中心に話を進めていったのだが、「ほほぉ~」と思ったのが関ヶ原の戦い後に津和野(島根県)に流されてからも、地域に残った旧臣たちと一字拝領や書状のやりとり等で、少なくとも江戸時代後期まではつながりがあったというお話。これは知らなかった。
戦国時代の渦に巻き込まれ没落した小野寺氏だが、去った後もこの地でいろんな形で生き続けていた、ということに歴史ロマンを感じる。大変貴重な講演を拝聴できた。楽しかった!