「鈴木義男」に学ぶ

先月の東北学院同窓会秋田県南支部40周年記念行事の目玉企画であった特別講義のテーマは「大正デモクラシーと東北学院ー鈴木義男の生涯ー」でした。鈴木義男は法学者、弁護士、政治家、教育者として活躍した人です。

明治27年に福島県白河町(現:白河市)に生まれた鈴木は明治40年に東北学院普通科に入学します。その後、二高、東京帝国大学に進み、ヨーロッパ留学を経て大正12年に東北帝国大学の教授に就任して行政法学を担当します。

その頃、日本は軍国主義に向かっていて、学校に現役将校を配属して「軍事教育」が行われようとしていました。鈴木はその動きを激しく批判し、軍部や文部省から危険人物としてマークされ、大学を辞することになります。

その後、鈴木は東京で弁護士となり、治安維持法違反事件や帝人事件といった権力によって不当に逮捕された人々の弁護を担当しました。そこには「<思想>では裁かない」という鈴木の基本的な考えがあります。

昭和21年、鈴木は戦後初の衆議院議員総選挙で日本社会党から立候補し当選。帝国議会憲法改正案委員会及び同小委員会のメンバーとして日本国憲法の作成に携わりました。近年、鈴木義男が注目を集めているのが、この新憲法制作過程における役割です。

鈴木は議論の中で憲法第9条に「平和」という文言を入れることを主張し、それが「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という形で実現します。また、第17条の「国、及び公共団体の賠償責任」や第40条の「刑事保障」でも議論をリードしました。

そして、極めつけは「生存権は最も重要な人権」として、第25条「生存権、国の生存権保障義務」の制定に寄与しました。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」で知られている条項です。

鈴木はその後も片山哲内閣の司法大臣、芦田均内閣の法務総裁に就任するなど、政界で活躍しました。その間、母校・東北学院の理事長や専修大学の学長・理事長も務めて教育界にも貢献しています。

死の直前、鈴木は家族に「損ばかりの人生だった」と笑顔で言ったそうです。それは、どんな場面でも常に弱い人々の立場にたって物事に向き合ってきた、鈴木義男の自らへの褒め言葉だったかもしれません。

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